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    プロレスラージャイアント馬場。日本のプロレス界への貢献については誰にも異論は無いだろう。
今日は、ジャイアント馬場の功罪(というと少し語弊がありますな。あくまでも個人的な感想である)について考えてみよう。雑記的に羅列しておくこととする。

    先ずは「功」。
①プロモーターとしての手腕。
    馬場は若手の頃、身体の大きさの割には動けるということで、全米各地のプロモーターから評価され、大型ヒールとして活躍した。このときに得た人脈を武器に、力道山の死後、独立して全日本プロレスを設立したのちに、アメリカの著名レスラーを来日させることに成功した。
    また、当時アメリカで最大のプロモーター組織NWAに参加。NWA傘下のレスラーを来日させるだけにとどまらず、自らもNWAチャンピオンとなった(但し、以前は団体から公認された記録ではなかったような気がする)。

②性格
    比較的に性格がおおらかだったらしい。
教養ある常識人で、読書家でもあった。誰かさんと違い、詐欺のような事業に首を突っ込むことはなかった。

③自ら招聘した外国人レスラーからの人気。
    外国人レスラーに対する待遇が金銭的にも、それ以外の点でも良かったという。

④対戦相手が楽。
    馬場のレスリングスタイルは、古き良きアメリカンプロレスのスタイルそのものであり、体の動きはスローモーであった。また、馬場自体、筋力のあるレスラーではなかったため、受け身が取りにくい投げ技などを仕掛けることは殆どなく、対戦相手への肉体的負担が軽減された。


    次に「罪」
①マッチメークのあざとさ
    他団体から移籍した外国人レスラーを比較的低く見ることが多かった。

②若手外国人レスラーを育てることが出来なかった。
著名レスラーを招聘していたが、全盛期を過ぎた40歳以上の年齢で、本拠地では試合に出る回数の減ったレスラーが多く、新日本プロレスのように、後に大きくブレークすることとなった若手外国人レスラーを発掘することはほとんどなかった。

③ケチだった。
    日本人レスラー(全日本プロレス所属)への待遇が悪かった。ライバル団体であり、企業規模の似通っていた新日本プロレスに比べ、選手のギャラが低いだけでなく、新日本プロレスと違って出場試合数あたりの報酬だったため、選手が怪我をして出場出来なかった場合にギャラが支払われなかったようだ。また、選手のキャラクターグッズの売り上げも、選手に入ることはなかったようだ。
    これが後々、自らの死後、所属選手の大量離脱の要因となり、実質的に団体を身売りすることとなってしまった。

④練習嫌い
    馬場の全盛期は、全日本プロレスを設立した後の数年だといわれている。私が全日本プロレスをテレビで観るようになったのは80年頃からだったが、この頃には既に練習しているような体型ではなく動きもスローモーで、かなり雑なアメリカンプロレスをやっている印象であった。
    彼の試合の説得力の無さが、後年プロレスファンが格闘技に流れてしまったことの一つの遠因だったかもしれない。